十一月第二週

1114

 

ちょっと寒くなってきたけど、秋晴れ。

日本の歴史などについて、いろいろお話しました。そして、宿題の発表(与えられた言葉「去饭店、来学校、买东西、写信」を使って作文, p.42)を行いました。

 

 

Aさん

昨天我们去好市多(科斯托克、COSTCO)。

Zuótiān wǒmen qù hǎo shì duō (kēsī tuō kè).

在那儿的加油站,给车加油了。

Zài nà'er de jiāyóu zhàn, gěi chē jiāyóu le.

然后,买东西了,例如,牛奶、咖啡粉和瓶装水。

Ránhòu, mǎi dōngxī le, lìrú, niúnǎi, kāfēi fěn hé píngzhuāng shuǐ.

 

<訳>

昨日コストコに行きました。そこのガソリンスタンドで車に給油しました。それから、買い物をしました、例えば、牛乳、粉コーヒー、ペットボトルの水です。

 

「好市多 hǎoshìduō」は、台湾でコストコのお店の名前として使われているそうです。中国本土では、近いうちに一号店が上海にできるらしい。

加油 jiāyóu」は、「頑張れ」と言う意味でよく使われるけれど、ここでは、「油をつぐ」と言う意味。「加油了。」だけで「ガソリンを入れる」という意味で普通に使うそうです。「車に入れる」とわざわざ言う場合、「给」を使って目的語の「車」を前に出して、「给车加油了」と書かれました。「加油」が離合詞で、動詞+目的語の構造になっているため動詞の「加」の後ろには持ってこれないためでしょう。

「瓶装水」は、容器入りの水(瓶でもペットボトルでも使うようです)。「プラスチックのペットボトル」を強調したい場合は、「塑料瓶装水 sùliào píngzhuāng shuǐ」と言えばよいとのことです。

 

 

Bさん

昨天我去饭店,进房间,写信。

Zuótiān wǒ qù fàndiàn, jìn fángjiān, xiě xìn.

然后,出去买东西。

Ránhòu, chūqù mǎi dōngxī.

 

<訳>

昨日ホテルに行って、部屋に入り、手紙を書きました。それから外へ出て、買い物をしました。

 

饭店 fàndiàn」は、単独で使うと、「レストラン」の意味に取りやすいとのことです。「北京饭店」とあれば、有名なホテルであることが明確ですが、「饭店」だけだとどちらかというと「レストラン」と思う人が多いようです。「旅馆 lǚguǎn」なら、間違えないでしょうとのこと。

 

課題の言葉を三つも使って、文章を作ってありますね。

 

 

Cさん

订(予約)と写信(手紙を書く)を使って文章を作られました。

 

预订了半年烹饪学校。

Wǒ yùdìngle bànnián pēngrèn xuéxiào.

我好久给朋友写信。

Wǒ hǎojiǔ gěi péngyǒu xiě xìn. 

那以后、从他收到了回信、「谢谢你的来信」。

Nà yǐhòu, cóng tā shōu dàole huíxìn,`xièxiè nǐ de láixìn'.

 

<訳>

私は半年間の料理学校の予約をしました。

私は久しぶりに友人に手紙をかきました。しばらくして、彼から返事が来ました、「手紙をありがとう」と。

 

 

「烹 pēngrèn」は「料理」。

「好久 hǎojiǔ」は、「長い間」ということ。「隔了好久 géle hǎojiǔ」とも言うようです。

「收 shōu」の文字は日本語の「収」とはちょっと異なっている。

「回信 huíxìn」の部分は、当初「还礼 huánlǐ」(お返しをする、答礼する)でしたが、「回信」のほうが良いとのことです。

 

 

Dさん

我去再利用商店了。

Wǒ qù zài lìyòng shāngdiàn le.

我去那里放松了精神。

Wǒ qù nàlǐ fàngsōngle jīngshén.

买五个笔记本用了二百日元。

Wǒ mǎi wǔ gè bǐjìběn yòngle èrbǎi rì yuán.

 

<訳>

私はリサイクルショップに行きました。そこへ行って、ストレス解消をしました。ノートを5200円で買いました。

 

「リサイクルショップ」は、「再利用商店 zài lìyòng shāngdiàn」。

放松 fàngsōng」は、「ゆるめる、楽にする」。「松 sōng」(緩い)の反対は「 jǐn」(ぴんと張る)。「放松」は、低い音を出すときに、「声帯を緩める」というようなときとか、太極拳などで、「身体を緩める」ときなどに、よく使われる言葉のようです。

200円使った」は「用了二百日元」でよいのですね。

 

 

Eさん

上月我和家人去了饭店。

Shàng yuè wǒ hé jiārén qùle fàndiàn.

菜很好吃也非常开心。

Cài hěn hào chī yě fēicháng kāixīn.

最近我没给谁写信。

Zuìjìn wǒ méi gěi shéi xiě xìn.

 

<訳>

先月家族とレストランに行きました。料理はおいしく、とても楽しい気分でした。

最近、だれにも手紙を書いていない。

 

「没给谁」は「だれにも~ない」という意味になる。「~に手紙を書く」は「給~写信」を使う。

「~に電子メールを送る」なら、「給~发电子邮件 gěi ~ fā diànzǐ yóujiàn」かな。

「我没给谁写信」で、「没」を使って否定型となっている。もし、「我不给谁写信。Wǒ bù gěi shéi xiě xìn.」なら「私は誰にも手紙を書きません(書きたくない)。」という意味になる。

 

 

 

次回までの宿題(125日)

「私の好きなお茶 (我喜欢的茶 Wǒ xǐhuān de chá)」について

 

十一月第一週

11月7日

 

昨日は雨だったけど、最近は比較的秋晴れの日が多い。

今日は、宿題の作文を発表してから、教科書をすこし勉強しました。

 

 

宿題で作ってきた「秋」に関連した作文

 

Aさん

日本的秋天有的是好吃的食物,我喜新大米。

Rìběn de qiūtiān yǒudeshì hào chī de shíwù, wǒ xǐhuān xīn dàmǐ. Zhùyì bàoshí.

注意暴食。

Zhùyì bàoshí.

 

<訳>

日本の秋には美味しい食べ物が多くあり、私は新米が好きです。食べ過ぎ注意。

 

「有的是 yǒudeshì」は、「たくさんある、いくらでもある」の意味で、「多的是 duōdeshì」とも言う。

「我喜新大米」は「我喜吃新大米」と「吃」を入れて表現することが多いですが、このままでも意味は通じるので良いでしょうとのこと。

 

 

Bさん

漢詩を作ってこられました。とてもまねできないです。

 

 秋思        Qiūsī

叶子变红大雪山  yèzi biàn hóng Dàxuěshān

草木黄落踏地毯  cǎomù huáng luò tà dìtǎn

高天色白云  gāotiān lán sè báiyún fēi

菊花芳香美酒旨  júhuā fāngxiāng měijiǔ zhǐ

秋夜満月镜怀人  qiūyè mǎnyuè jìng huái rén

 

<訳>

見事な紅葉は北海道「大雪山」。

平地では黄葉が地を覆い、絨毯を踏む心地。

青い天空には白雲が舞い、

菊香る秋、お酒(菊酒)がおいしい。

秋の夜には、月を鏡として、人を懐う。

 

秋の景色や雰囲気などを思い出しながら、書かれたようです。

 

 

Cさん

上周星期天,我参加自行<2018半世 茨城>。

Shàng zhōu xīngqítiān, wǒ cānjiā zìxíngchē bǐsài <2018 bàn shìjì Cíchéng>.

旅程五十英里(八十公里)。

Lǚchéng wǔshí yīnglǐ (bāshí gōnglǐ).

我好不容易跑完了。

Wǒ hǎobù róngyì pǎowán le.

天气多云,气温有点儿低。

Tiānqì duōyún, qìwēn yǒudiǎr dī.

者二百五十人左右。

Cānsài zhě èrbǎi wǔshí rén zuǒyòu.

 

<訳>

このまえの日曜日、自転車レース<2018半世紀 茨城>に参加しました。距離は50マイル(80キロメートル)。

何とか完走しました。天気は曇りで、気温はちょっと低めでした。参加者は約250名でした。

 

<2018半世>の「半世紀」は英語の「half century」のことのようで、「century」は「100」を意味していて、この場合は「100マイル」のことのようです。ですから、「半世紀」で「50マイルレース」のことです。1マイルが約1.61メートルなので、80 km強ということになります。

「公里 gōnglǐ」は「キロメートル」、「英里 yīnglǐ」は「マイル」です。

「好不容易 hǎobù róngyì」は、「やっとのことで、ついに」という意味です。「好容易 hǎoróngyì」でも同じ意味です。

 

「跑完了」は、当初「完跑了」と成っていました。「跑完」は結果補語で、「走った結果、走りを全うした」ということになります。日本語では「完走した」となり、「完」が前に来ます。

  食べ終わった(完食)---->  吃完 chī wán

  読み終わった(完読)---->  看完 kàn wán

でも、次の様なものもあり、一定の規則はなさそう。日本語とはきれいに対応はしていないので、補語は難しい。

  変化してしまった(変成)---->  成 biàn chéng

  聞いて理解する(??) ---->  听懂 tīng dǒng

 

「天气多云」は「曇りだった」ということ、お天気の言い方はいろいろありそう。

  天気が良い    好天气 hǎo tiānqì、晴天 qíngtiān

  曇りがちの天候  多云的天气 duōyún de tiānqì

  曇り空      阴天 yīn tiān

  天気が良くない  天气不好 tiānqì bù hǎo

  曇りのち晴れ   天气阴晴 tiānqì yīn zhuǎn qíng、多云晴 duōyún zhuǎn qíng

  天気がぐずつく  阴晴不定 yīn qíng bùdìng

  雨        太阳雨 tàiyángyǔ、下雨 xià yǔ

 

「左右 zuǒyòu」は、「およそ、約」という意味ですが、同じような意味の言葉は、他にもあります。辞書をちょっとのぞいてみました。

  30人くらい     三十来个人 sānshí lái gè rén

およその数字を表したいとき、     

  25,6歳       二十几 èrshí jǐ suì

  三、四文字の漢字   三四个字 sānsì gè zì  

また、少し多いとき、少し少ないときは、

  三十年余り     三十多年 sānshí duō nián    

  三十足らず     三十不到 sānshí bù dào

 

 

Dさん

秋天、我喜的地方是晴朗的天气。

Qiūtiān, wǒ xǐhuān dì dìfang shì qínglǎng de tiānqì.

我不喜的是日照不

Wǒ bù xǐhuān de shì rìzhào bù cháng.

 

<訳>

秋で私の好きなところは、爽やかな天気です。好きでないのは、日が短いことです。

 

「秋には」というような意味で「秋天」「秋天 qiūtiān shí」と言えば良いようです。

「地方 dìfang」は、「部分、ところ」という意味でつかわれます。「dìfang」と、「方」は軽声で発音されるようです。一方辞書によると、「dìfāng」と第一声で発音されると、「地方、当地、地元」などの意味となるようです。

「日照 rìzhào」は、日本語と同じ。最初、Dさんは「日子 rìzi」としていたが、この言葉は、「日、期日、日数、暮らし」などの意味ととれるので、ここでは相応しくない。「日照不」または「日照短 rìzhào duǎn」が良い。

 

 

このあと、

「一年生のコミュニケーション」の42ページ(新訂版は38ページ)を勉強。

完了を表す「了」とその否定型、そして選択疑問文「~是」の使い方のトレーニング。

さらに、先生のいわれた簡単な中国語の文の聴き取りをしました。

  次の文章がみな聴き取れませんでした。う~ん、聴き取りは難しい~

 「小姐, 我想一个房。Xiǎojiě, wǒ xiǎng dìng yīgè fángjiān.」

   「一部屋予約したい」(ホテルのフロントで女性従業員に、話しかけている様子かな)

 

 

***** 来週までの宿題 *****

42ページの絵にある言葉(動詞+目的語)をつかって文章を作ること。

 例えば、 上周我跟朋友写信了。Shàng zhōu wǒ gēn péngyǒu xiě xìn le.

 

十月の漢詩

2018年10月24日

 

今日の漢詩は、北宋苏轼 Sū Shì(蘇軾, 蘇東坡)の「贈劉景文」でした。

苏轼の詩は、昨年五月に「湖上初晴后雨 Yǐn húshàng chū qíng hòu yǔ」を、今年の一月には「西林壁 Tí xīlín bì」を学びました。

 

苏轼とともに、その父親(洵)と弟(苏辙)も有名で、「三」と称される。古文の唐宋八大家 Táng sòng bādà jiā といえば、この三人を含め、他に、韓愈(愈, Hán Yù)、柳宗元(Liǔ Zōngyuán)、欧陽脩(欧阳修, Ōu Yángxiū)、曾鞏(そうきょう, 曾巩, Céng Gǒng)、王安石(Wáng Ānshí)の五人がはいっている。苏轼は、中国では人気が高いそうだ。また、彼の生きた北宋時代は、とても良い時代であったろうと捉えている人も多いそうだ。

 

苏轼は、詩人で書道家、随筆家であり、官僚でもあった。数回に渡り左遷されている。左遷先の黄州(現在の湖北省黄州区)で、自身が農作業を行っていた場所に因んで「東坡居士」と号した。苏东坡 Sū Dōngpō と呼ばれるのは、このことに由来する。また、黄州の豚肉に目をつけ、東坡肉の原型となる「紅焼肉(hóng shāoròu、豚肉の醤油煮)」を考案した。その次の左遷先、杭州では、西湖の水利工事を行っている。工事に貢献した人たちに振る舞われた紅焼肉を、人々が、「東坡肉 Dōngpō ròu」と名付け、杭州の名物となった。彼は、左遷されていた時期に、有名な詩を多く書いている。

(一部、Wikipediaを参照)

 

    

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  東坡肉 Dōngpō ròu (よく見ると、中華料理店で食べたことがありそう)

   写真は、https://www.youtube.com/watch?v=CEFZD7g52bs

       https://www.taobao.com/list/product/坡肉熟食.htm より

 

       *****************************

 

赠刘景文       Zèng Liú Jǐngwén

        北宋苏轼  (Běi Sòng) Sū Shì

荷尽已无擎雨盖    Hé jìn yǐ wú qíng yǔ gài

菊残犹有傲霜枝    Jú cán yóu yǒu ào shuāng zhī

一年好景君须记    Yì nián hǎojǐng jūn xū jì

正是橙黄橘绿时    Zhèng shì chéng huáng jú lǜ shí

 

 

贈劉景文

荷尽已無擎雨蓋

菊残猶有傲霜枝

一年好景君須記

正是橙黄橘緑時

 

 

<訳>

蓮の花は枯れ、

  傘のように雨を受けていた葉も、今は無い。

菊の花は凋み、何本かの枝が

  霜に耐えて伸びている。

一年のうち最も景色の美しいこの時期。

  ぜひ記憶に留めてほしい。

ユズ(ダイダイ)は黄色く色づきミカン(タチバナ)はまだ緑色。

  ちょうどそんな時期だ。

http://kanshi.roudokus.com/ryuukeibun.html

 

初冬の作とされている。ある中国のサイトでは、「贈劉景文 / 冬景」という標題になっていた。作者から友人の景文(季孫)にこの詩が贈られており、何かのメッセージが含まれていると思われる。

「荷」は、ハス(蓮)のこと、七月の漢詩万里の「小池 Xiǎochí」にも出てきた。

「傲」は、普通「傲慢である、おごる」と言う意味だが、ここでは「しのぐ、ものともしない」の意味。

 

起句と承句は対句になっている。

  「荷尽 已無 擎雨蓋」

  「菊残 猶有 傲霜枝」

http://www5a.biglobe.ne.jp/~shici/shi4_08/pbt_shi232.htm

 

この詩には4つの色が読み込まれている。蓮の花のピンク、菊の花の白、橙の黄色、蜜柑の緑

https://ameblo.jp/sasurai-tran/entry-11078115479.html

 

中国のネット上でみると、55歳の少し前の頃の詩と思われ、相手の景文は58歳のようだ。

この詩のメッセージは、わかりにくいけれど、次の様な解説がネット上にあった。

「あれ程美しかった蓮の花も葉もなくなり、香り高く咲き誇っていた菊の花も霜枯れてしまった。けれど、その枝は誇り高く霜に立ち向かっている。そして橙やみかんの木は豊かな実を付けて輝いている。我々の人生も、実にこれから実りの季節を迎えるのだよ。」

https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1179800111

 

十月第二週

10月10日

きょうは、秋晴れだ〜。10月10日は、「晴れの特異日」とされていると思っていた。
ところが、ウィキペディアでは、「特に晴れが多いということはない」と書かれてあった。そうなのか〜、でも「晴れの多い季節」と言うことはできそうだ。

 

中国語で近況説明をした。我々は、まだ中国語の文章を巧く書けないので、先生が修正した後の文章です。先生も、我々の元の文章をなるべく生かそうとされている。今回は、改めて中国語の作文が難しいと感じましたが、実りのある勉強でした。


Aさん
上个星期六土浦焰火大会举行。
Shàng gè xīngqíliù tǔpǔ yànhuǒ dàhuì jǔxíng.
但是因为事故,中途停止了。
Dànshì yīn wéi shìgù, zhōngtú tíngzhǐle.
很可惜。
Hěn kěxí.

 

<訳>
先週の土曜日に、土浦花火大会がありました。でも事故があり、途中で中止になりました。とても残念。

 

焰火 yànhuǒ: 花火(大きな花火のことを意味する)、「烟火 yānhuǒ」ともいう。爆竹などは「烟花 yānhuā」
「土浦焰火大会举行」は、「举行了土浦焰火大会 Jǔxíngle tǔpǔ yànhuǒ dàhuì」でも良い。
土浦の花火大会は、「毎年十月第一个星期六 měinián shí yuè dì yī gè xīngqíliù」に開催される。


Bさん
去年院子的橘子结了很多果実,可是今年只结了可数的果实,很少。
Qùnián yuànzi de jú zǐ jiéle hěnduō guǒshí, kěshì jīnnián zhǐ jiéle kě shǔ de guǒshí, hěn shǎo.
我想也许是我剪多了树枝吧。
Wǒ xiǎng yěxǔ shì wǒ jiǎn duōle shùzhī ba.

 

<訳>
去年庭のみかんの木はたくさん実をつけました、でも今年は数えるほどの「みかん」しかなりませんでした。おそらく、枝を剪定し過ぎたのではないかと思います。

 

「结了很多果実」は、簡単に「大丰收 dà fēngshōu 大豊作」でも良い。
可数的 kě shǔ de: 数えられるほどの(数は shǔ と shù の二種類の声調があって、前者は動詞で「数える」、後者は名詞で「数、数量」、また shuò と読むときは、おもに書き言葉で副詞的に使われ、「たびたび、しばしば」の意味になる)
也许 yěxǔ: (推測)もしかしたら〜かもしれない、文章の最後の「吧 ba」にも推測の意味合いがある。

剪 jiǎn: はさみ、(はさみで)切る、裁つ
剪多 jiǎn duō: 動詞+形容詞で示される結果補語と考えられる表現か?
「我想也许是我剪多了树枝吧。」は、「大概原因是剪多了树枝吧。Dàgài yuányīn shì jiǎn duōle shùzhī ba.」でもよい。前者のほうが、より推測の程度が高い(より不確かである)。


Cさん
这次为了成为减肥指导员,现在在听讲中。
Zhè cì wèile chéngwéi jiǎnféi zhǐdǎoyuán, xiànzài zài tīngjiǎng zhōng.
这成为我的饮食生活重新考虑的时机。
Zhè chéngwéi wǒ de yǐnshí shēnghuó chóngxīn kǎolǜ de shíjī.

 

<訳>
このたび、ダイエットリーダーになるために、今講義を受けています。これは、私の普段の食事(食生活)について、新たに考え直すよい機会になります。

 

为了 wèile: 〜のために
成为 chéngwéi: 〜になる、 最初の文章では「成为减肥指导员(ダイエットリーダーになる)」と使われています。次の文章では、「成为...时机(よい機会になる)」と使われています。

减肥 jiǎnféi: ダイエット
指导员 zhǐdǎoyuán: この場合のリーダーに相当するのは指導員が相応しい。「领导 lǐngdǎo」という言葉もある。また、「领袖 lǐngxiù」は、かなり大物の政治家のような人に使うようだ。
「听讲中 tīngjiǎng zhōng」は、「上课学习中 shàngkè xuéxí zhōng」でも良い。
重新 chóngxīn: 改めて、もう一度
「时机 shíjī」は「チャンス、好機」、「机会 jīhuì」でも良い。

 

「重新考虑 chóngxīn kǎolǜ」という表現で、先生がちょっと考え込まれた。筆者も「アッ」と思って、ちょっと興奮してしまった。」ちょうど、図書館で借りて読んでいた本で、昨晩読んだ内容を思い出した。「日本語は曖昧な表現をするが、中国語は具体的に表現する」という内容を。

 

日本語ではこのように「考慮する、考え直す」というのは普通に使うし、むしろあまり具体的に「どのように考え直すか」を言わないのが好まれるように感じる。中国人にとっては、「食生活」をどうしたいかが書かれていなくて、ぼんやりした印象を与えるのかもしれない。日本語は曖昧さのなかに、発信者と受信者とが、文章や言葉の意味を暗黙のうちに了解しあっている、というようなことがその本に書かれていた。この文章を例にとれば、日本語では、発信者が「考慮する、考え直す」と言えば、受信者が「ダイエットが進みやすいように食事内容を変更する」と解釈して、コミュニケーションが成立する。中国語では、発信者が曖昧な表現をしたときに、受信者側がその意味するところを解釈してあげるというコミュニケーションシステムは一般には機能しなくて、発信者が細かいところまで確実にその内容を表現してあげることが求められているということなのだろう。日本人からすると「くどい」表現になるかもしれない。

 

先生は「这成为我的饮食生活重新考虑的时机。」という文章で、「中国語としてはこれで良いけれど、中国人はこのように発想しない」というようなことをちょっと言われたようにおもう。Cさんのこの文章は、忘れられないものになりそうです。一対一の言葉の置き換えではなく、コミュニケーションのあり方が、日本語と中国語で違っていることを、印象付けてくれました。ちょっと興奮してごめんなさい。でも、ありがとう、勉強になりました。中国語的な発想で言葉を発するというのは、とても難しい課題になりそう。


Dさん
上个周末在「取手」有两个太极拳的锦标赛。
Shàng gè zhōumò zài qǔshǒu yǒu liǎng gè tàijí quán de jǐnbiāosài.
选手来自南关东地区。
Xuǎnshǒu láizì nán guāndōng dìqū.
我作为干事参加了。
Wǒ zuòwéi gànshi cānjiā le.

 

<訳>
先週末、取手で太極拳の大きな大会が二つありました。選手は、南関東地区から集まりました。私は、役員として参加しました。

 

锦标赛 jǐnbiāosài: 大きな選手権大会、この場合「比赛(試合)」でも十分。
自 zì: 〜から(場所や時間の起点を表す)、 来自〜 láizì 〜から来る
作为 zuòwéi: 〜として、〜の資格で
干事 gànshi: 役員

 

「选手来自南关东地区。」は、当初「南关东地区的选手参加了。」と書かれていた。これも、Cさんのところで述べた具体性という点からあまり良い文章ではないようです。日本語なら両者であまり違いが無いようにも思えますが、やはり、「南関東地区の選手が参加した。」ではなく、「選手は南関東地区から来た。」のほうがより明確に意味を伝えていると思います。

 

勝手な憶測だけれど、この文章を頭のなかで考えるときに、日本人は「南関東の選手」という言葉を中心に文章が思い浮かぶけれど、中国人は「来自(〜から来た)」を中心に文章表現が構成されやすいのかもしれないな??中国語に上達するためには、多くの中国語に接する必要がありそうです。

 


次回(第四週は漢詩なので、11月第一週になる)では、「秋」についての発表が課題になりました。それ以外の内容でもかまわないとのことです。

 

十一月の教室日程

11月もこれまでと同様に、第一、第二週は中国語の勉強、第四週は漢詩の勉強です。

   11月 7日 中国語 (保育室)

   11月14日 中国語 (和室3)

   11月28日 漢詩 (保育室)

 土浦一中公民館、火曜日朝10〜12時

 

十月第一週 秋だね〜

10月3日

10月に入り、少し涼しくなってきました。第一週は中国語です。先週から、新しい方が参加しているので、前半は拼音 pīnyīn について復習しました。
後半は、近況を中国語で報告しました。最近は、個人個人の近況状況の発表が長くなって(考えてくる文章が長くなって)きました。勉強熱心なのは大変結構なことだけれど、全員が発表できる時間がなくなってきたので、もう少し端的に短い文章で表現するようにしましょうとの先生の提案がありました。

 

拼音 pīnyīn について
中国語の発音を表記するためにアルファベットを使う試みはかなり以前から行われてきたけれど、1958年に中華人民共和国によって制定された「漢語拼音方案」という表記法が一般に使われています。「当初は、拼音は将来的に漢字に代わる文字として中国で位置づけられていたが、現在では中国語の発音記号として使用されている。」そうです(ウィキペディアによる)。先生によると、ピンインの父と呼ばれる周有光 Zhōu Yǒuguāng (長生きをされましたが、亡くなられました)が大きな働きをされたようです。

 

母音の発音と四声について復習しました。

 

先生の話から
現在の東南アジアの漢字文化圏においては、独自の文字(書き言葉)を持っていなかったため、中国からの漢字の輸入は、記録をとることができるようになったという意味でとても重要です。それにより、独自の文字の発展も促されたことになります。日本には、公元(gōngyuán 紀元)五世紀頃、漢字が伝わったとされています。(もちろんそれ以前にも断片的には伝わっていただろうとは推察できると思います)。この五世紀頃とは、東晋南北朝時代で、日本の古墳文化の前半ころだろうと思われます。それより以前の弥生時代後期には、漢 Hàn の光武帝 Guāng wǔdì の金印 Jīn yìn が見つかっているので、日本の朝廷あるいは豪族との交流はあったと考えられます。漢字の導入が、いまの日本の文化の根底に深く関わっていることになりますね。

 

もう一つ、中国の各王朝のなかで、唐のように国際的な交流をもって繁栄した国もありますが、宋は漢民族同士の内乱もなく、文化的にもすぐれた時代もありましたと紹介されました。「清明上河图 qīngmíng shànghé tú」という絵巻が北京の故宮博物院に所蔵されているそうで、この絵巻は、北宋の都であった开封 Kāifēng の都城内外の賑わいの様子を描いています。

 

ちょっと休憩、そして、後半に。


参加者の近況の発表

Aさん
最近中国語で読んだ寓話について、紹介されました。寓話は中国語では、「寓言 yùyán」といいます。寓話の題は「矛盾 Máodùn」です。日本でも、中学校の国語漢文で学びます。Aさんの書かれた文章は以下の通りです。

 

我最近读了寓言。---
Wǒ zuìjìn dúle yùyán
楚人有卖盾与矛者。
Chǔ rén yǒu mài dùn yǔ máo zhě.
誉之日,「吾盾之坚、莫能陷也。」
Yù zhī yuē,「wú dùn zhī jiān, mò néng xiàn yě.」
又誉其矛日,「吾矛之利,於物無不陷也。」
Yòu yù qí máo yuē,「wú máo zhī lì, yú wù wúbù xiàn yě」
或日,「以子之矛,陷子之盾,何如。」
Huò yuē,「yǐ zǐ zhī máo, xiàn zǐ zhī dùn, hérú.」
其人弗能应也。
Qí rén fú néng yīng yě

 

<日本語>
最近寓話を読みました。
楚人に盾と矛とを売るもの有り。之を誉めて曰く、「我が盾の堅きこと、能く陥(とお)す莫きなり」と。また其の矛を誉めて曰く、「我が矛の利(と)きこと、物に於いて陥差ざる無きなり」と。或ひと曰く、「子の矛を以て、子の盾を陥さば、如何」と。其の人、応ふること能はざるなり。

 

寓話の中は、現代中国語ではなく、古い言葉で書かれています。
「日」は「yuē」と発音され、「言う」という意味です。論語の「子日」は、「し、のたまわく」と習いました。あるいは現在の学校では「し、いわく」と習っているようです。現在の中国語の「说 shuō」ということでしょうね。
最後の文は、書き下し文では、「其(その)人(ひと)、応(こた)ふる{こと}能(あた)は弗(ざ)る也(なり)。」となります。

 

日本の教科書では、最初の文の「楚人有卖盾与矛者。」の「卖 mài」が「鬻 yù」(「ひさぐ」とよむ、「売る」の意味)になっています。おそらく、中国の低学年用の読本などでは、「鬻」という難しい漢字を避けて、おなじ意味の「卖」にしてあるのではないかと推察します。日本では、昔から伝わったものに忠実に従っていると思われます。

 

古い文章のなかの漢字を後世の人が変更するというようなことは、時々あるようで、優しい漢字に変更するだけでなく、表現上の考えから変えてしまうこともあるようです。先週の漢詩の時間に先生が紹介された有名な詩である、李白の「静夜思 Jìng yè sī」にもあります。これは、後世になって、詩の編集者らがより良いと考えたのか、二カ所ほど変更されています。中国ではこの変更された詩を学んでいるのですが、日本では古い時代に伝わった原文のまま学んでいて、日中で若干違っています。
https://blog.goo.ne.jp/miyu_hato/e/a292f72e7c52443f80c8ec71c81aa476
http://finalvent.cocolog-nifty.com/fareastblog/2014/05/post-7f71.html


Bさん
台风二十四号来了。
Táifēng èrshísì hào lái le.
激越的风吹来。
Jīyuè de fēng chuī lái.
我的房子振动,我醒。
Wǒ de fángzi zhèndòng, wǒ xǐng.
我担心,早上走进院子。
Wǒ dānxīn, zǎoshang zǒu jìn yuànzi.
一棵樱桃树从根倒了。
Yī kē yīngtáo shù cóng gēn dàole.
我修种了,但还是怀疑明年是否结果实。
Wǒ xiū zhǒngle, dàn háishì huáiyí míngnián shìfǒu jiē guǒshí.

 

<訳>
台風24号がやって来ました。激しい風が吹きました。私の家が震えて、眼が醒めました。私は心配で、朝早く庭に出てみました。一本のさくらんぼの木が根こそぎ倒れていました。植え直しましたが、来年実をつけるかどうか心配です。

 

今年は、強い台風がやって来ています。Bさんの家では、昨年の秋にも、台風で庭のミカンの木が倒れました。毎年、大変ですね。

 

激越 jīyuè:(感情が)高ぶって激しい
振动 zhèndòng: 震動 と同じ発音
醒 xǐng: 眼が醒める、(まだ睡らずに)起きている
担心 dānxīn: 心配する、懸念する
棵 kē: 木を数える量詞
怀疑 huáiyí: 疑う
是否 shìfǒu: 〜であるかどうか
结 jiē: (実が)成る、(実を)つける、(jiéと四声で読む場合は、「結ぶ」の意味)

 

ブログを書いていて、このBさんの作文には、勉強になる表現があると思いました。「我担心、早上走进院子(心配で、朝早く庭にでた)」という文で、当初は、「退出院子」と書かれていたのが、「走进院子」と修正されました。日本語では「庭に出る」という表現は、「部屋からでて庭に移動する」ということを表していて、ごく普通の表現です。中国語では「走进院子」ですから「庭の中に歩いて入る」という表現になっています。すなわち、「出房间 chū fángjiān、进院子 jìn yuànzi」ということになるのでしょう。

部屋から庭に出る(部屋--->庭)
  出房间  部屋から出る
  进院子  庭に出る(庭に入る)
右側の日本語ではともに「出る」を使えば良いので、内から外への移動を「出る」と表現しており、その文章にでてくる場所(部屋か庭か)には影響を受けていません。「庭に入る」と言う表現は、特別な場合しか使わないと思います。しかし、中国語では、目的語の位置に来るのが「房间」なのか「院子」なのかによって、この移動に係わる動詞が違います。「房间」ならば「出(出る)」をつかい、「院子」ならば「进(入る)」を使っています。日本語では「部屋」であろうと「庭」であろうと内から外への移動を客観的にみて「出る」という言葉に統一して使う傾向があるのに対し、中国語では「庭」ならば入ると表現します。

この逆に、庭から部屋の中に入る場合(庭--->部屋)は、
  进房间  部屋に入る
  出院子  庭から入る 
      (部屋に入る場合に「出院子」という表現が使われるかどうかわかりませんが...)
日本語ではともに「入る」という言葉で表現しますが、中国語ではこの場合も、「进」と「出」を使い分けているのではないかなあ。


Cさん
这个星期日,台风接近关东的时候,我们家的厕所里,水冲洗装置不启动了。
Zhège xīngqírì, táifēng jiējìn Guāndōng de shíhòu, wǒmen jiā de cèsuǒ lǐ, shuǐ chōngxǐ zhuāngzhì bù qǐdòng le.
装置的拉手把一条锁链子连接。
Zhuāngzhì de lāshǒu bà yītiáo suǒliànzi liánjiē.
那个锁链掉了。
Nàgè suǒliàn diàole.
我们抢修那个拉手,用铁丝捆上锁链和拉手。
Wǒmen qiǎngxiū nàgè lāshǒu, yòng tiěsī kǔnshàng suǒliàn hé lāshǒu.
坏的装置修好了,我高兴得不得了。
Huài de zhuāngzhì xiūhǎole, wǒ gāoxìng de bùdeliǎo.

 

<訳>
今週の日曜日、台風が関東に接近していたころ、我が家のトイレで、水洗装置が働かなくなりました。装置の取っ手に一本の鎖がつながっています。その鎖が外れて落ちました。その取っ手を応急修理して、針金で鎖と取っ手をつなぎ合わせました。壊れた水洗装置が直って、とてもうれしかった。

 

启动 qǐdòng: 始動する
连接 liánjiē: 繋がる
锁链子 suǒliànzi、锁链、链子: 鎖、チェーン
抢 qiǎng: 奪い取る、(抢 + 動詞または名詞で、「急いで〜する」の意味)
抢修 qiǎngxiū: 応急修理をする
铁丝 tiěsī: 針金
修好了 xiūhǎole: 結果補語の形で「ちゃんと修理できた」の意味。
得不得了 de bùdeliǎo: 前の「得」は、程度補語を導く「得」で、形容詞の「高兴」の後ろにつけて、それ以降の言葉でその程度を表している。「不得了」は、慣用句で「とても、すごく」の意味。

 

時間がなくなってきて、先生の添削が十分でないかもしれませんが、最初の文章の最後「不启动了」は、当初「没启动」となっていました。最後に「了」をつけるのが大切な気がします。

 

九月の漢詩の教室

9月26日

今日は漢詩を勉強する日。教室の前に、ちょっと太極拳の練習をしました。

 

夏休み前に、「これまでに学んだ漢詩をどれかを暗記してきましょう」、または、「暗記が難しければ、二つの好きな漢詩を発表してください」という課題がでていました。このサークルで、漢詩の勉強を初めて5年目になるようで、古くは2013年に勉強した漢詩もあるようです。

 

参加者が発表した、好きな漢詩や思い出深い漢詩を以下に書きます。順不同です。漢詩をみごとに暗記されてこられた生徒さんもいました。たまには、復習をかねて、学んだ漢詩を紹介するのも良いですねという先生の感想でした。

 

送元二使安西        王维
        Sòng Yuán èr shǐ ānxī        Wáng Wéi
小园        陆游
       Xiǎo yuán        Lù Yóu
寒雀        杨万里
       Hán què        Yáng Wànlǐ
小池        杨万里
       Xiǎochí        Yáng Wànlǐ
望庐山瀑布        李白
       Wàng lúshān pùbù        Lǐ Bái
春望        杜甫
       Chūn wàng        Dù Fǔ
清明        杜牧
       Qīngmíng        Dù Mù
凉州曲        王翰
       Liáng zhōu qū        Wáng Hàn
送孟浩然之广凌        李白
       Sòng Mèng Hàorán zhī Guǎnglíng        Lǐ Bái
暑中杂咏        苏舜钦
       Shǔzhōng zá yǒng        Sū Shùnqīn

 

他に先生は、次の二つの句を紹介されました。
1. 梅花        Méihuā
詳しく話されなかったので、誰の作のものかを聞き逃しました。「梅花」は王安石、高啓、蘇軾、陸游らが詠んでおり、日本の菅原道真太宰府に左遷された翌年に「梅花」という漢詩を詠んでいます。王安石の詩は五言絶句で短いので、先生が言われたのはこれかな?


2. 静夜思        李白
        Jìngyè sī        Lǐ Bái
五言絶句の有名な詩で、ウィキペディアによると、中学校の国語で学習するようです。先生は小学校の時に学ばれたらしく、諳んじておられました。

 

先生のお話では、中国の天津の南開大学に、叶嘉莹 Yè Jiāyíng という漢詩では有名な教授がおられるそうです。90歳を過ぎておられるとか。大学の中国古典文化研究所の所長をされているようです(http://www.scs.kyushu-u.ac.jp/higashi/pdf/activity/zassi_01.pdf)。

 

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今日は、男性が教室見学にこられました。公民館のサークルの案内を見られたらしく、漢詩を勉強しているということで興味を持たれたようです。この方は、俳人与謝蕪村の名前である「蕪村」が漢詩に由来するということで漢詩にも興味を示されたようです。
与謝蕪村は、江戸時代中期の俳人、画家です。「蕪村」の名前の由来は、一般に陶淵明の詩「帰去来辞」に由来すると考えられているそうです。しかし、蕪村は詩人であり画家でもあった盛唐の時代の王维を尊敬しており、この方は、王维の詠んだ漢詩にその由来があるのではという考え方を持っておられます。いろんな観点から漢詩を眺めることができて、面白い。