十月第二週

10月10日

きょうは、秋晴れだ〜。10月10日は、「晴れの特異日」とされていると思っていた。
ところが、ウィキペディアでは、「特に晴れが多いということはない」と書かれてあった。そうなのか〜、でも「晴れの多い季節」と言うことはできそうだ。

 

中国語で近況説明をした。我々は、まだ中国語の文章を巧く書けないので、先生が修正した後の文章です。先生も、我々の元の文章をなるべく生かそうとされている。今回は、改めて中国語の作文が難しいと感じましたが、実りのある勉強でした。


Aさん
上个星期六土浦焰火大会举行。
Shàng gè xīngqíliù tǔpǔ yànhuǒ dàhuì jǔxíng.
但是因为事故,中途停止了。
Dànshì yīn wéi shìgù, zhōngtú tíngzhǐle.
很可惜。
Hěn kěxí.

 

<訳>
先週の土曜日に、土浦花火大会がありました。でも事故があり、途中で中止になりました。とても残念。

 

焰火 yànhuǒ: 花火(大きな花火のことを意味する)、「烟火 yānhuǒ」ともいう。爆竹などは「烟花 yānhuā」
「土浦焰火大会举行」は、「举行了土浦焰火大会 Jǔxíngle tǔpǔ yànhuǒ dàhuì」でも良い。
土浦の花火大会は、「毎年十月第一个星期六 měinián shí yuè dì yī gè xīngqíliù」に開催される。


Bさん
去年院子的橘子结了很多果実,可是今年只结了可数的果实,很少。
Qùnián yuànzi de jú zǐ jiéle hěnduō guǒshí, kěshì jīnnián zhǐ jiéle kě shǔ de guǒshí, hěn shǎo.
我想也许是我剪多了树枝吧。
Wǒ xiǎng yěxǔ shì wǒ jiǎn duōle shùzhī ba.

 

<訳>
去年庭のみかんの木はたくさん実をつけました、でも今年は数えるほどの「みかん」しかなりませんでした。おそらく、枝を剪定し過ぎたのではないかと思います。

 

「结了很多果実」は、簡単に「大丰收 dà fēngshōu 大豊作」でも良い。
可数的 kě shǔ de: 数えられるほどの(数は shǔ と shù の二種類の声調があって、前者は動詞で「数える」、後者は名詞で「数、数量」、また shuò と読むときは、おもに書き言葉で副詞的に使われ、「たびたび、しばしば」の意味になる)
也许 yěxǔ: (推測)もしかしたら〜かもしれない、文章の最後の「吧 ba」にも推測の意味合いがある。

剪 jiǎn: はさみ、(はさみで)切る、裁つ
剪多 jiǎn duō: 動詞+形容詞で示される結果補語と考えられる表現か?
「我想也许是我剪多了树枝吧。」は、「大概原因是剪多了树枝吧。Dàgài yuányīn shì jiǎn duōle shùzhī ba.」でもよい。前者のほうが、より推測の程度が高い(より不確かである)。


Cさん
这次为了成为减肥指导员,现在在听讲中。
Zhè cì wèile chéngwéi jiǎnféi zhǐdǎoyuán, xiànzài zài tīngjiǎng zhōng.
这成为我的饮食生活重新考虑的时机。
Zhè chéngwéi wǒ de yǐnshí shēnghuó chóngxīn kǎolǜ de shíjī.

 

<訳>
このたび、ダイエットリーダーになるために、今講義を受けています。これは、私の普段の食事(食生活)について、新たに考え直すよい機会になります。

 

为了 wèile: 〜のために
成为 chéngwéi: 〜になる、 最初の文章では「成为减肥指导员(ダイエットリーダーになる)」と使われています。次の文章では、「成为...时机(よい機会になる)」と使われています。

减肥 jiǎnféi: ダイエット
指导员 zhǐdǎoyuán: この場合のリーダーに相当するのは指導員が相応しい。「领导 lǐngdǎo」という言葉もある。また、「领袖 lǐngxiù」は、かなり大物の政治家のような人に使うようだ。
「听讲中 tīngjiǎng zhōng」は、「上课学习中 shàngkè xuéxí zhōng」でも良い。
重新 chóngxīn: 改めて、もう一度
「时机 shíjī」は「チャンス、好機」、「机会 jīhuì」でも良い。

 

「重新考虑 chóngxīn kǎolǜ」という表現で、先生がちょっと考え込まれた。筆者も「アッ」と思って、ちょっと興奮してしまった。」ちょうど、図書館で借りて読んでいた本で、昨晩読んだ内容を思い出した。「日本語は曖昧な表現をするが、中国語は具体的に表現する」という内容を。

 

日本語ではこのように「考慮する、考え直す」というのは普通に使うし、むしろあまり具体的に「どのように考え直すか」を言わないのが好まれるように感じる。中国人にとっては、「食生活」をどうしたいかが書かれていなくて、ぼんやりした印象を与えるのかもしれない。日本語は曖昧さのなかに、発信者と受信者とが、文章や言葉の意味を暗黙のうちに了解しあっている、というようなことがその本に書かれていた。この文章を例にとれば、日本語では、発信者が「考慮する、考え直す」と言えば、受信者が「ダイエットが進みやすいように食事内容を変更する」と解釈して、コミュニケーションが成立する。中国語では、発信者が曖昧な表現をしたときに、受信者側がその意味するところを解釈してあげるというコミュニケーションシステムは一般には機能しなくて、発信者が細かいところまで確実にその内容を表現してあげることが求められているということなのだろう。日本人からすると「くどい」表現になるかもしれない。

 

先生は「这成为我的饮食生活重新考虑的时机。」という文章で、「中国語としてはこれで良いけれど、中国人はこのように発想しない」というようなことをちょっと言われたようにおもう。Cさんのこの文章は、忘れられないものになりそうです。一対一の言葉の置き換えではなく、コミュニケーションのあり方が、日本語と中国語で違っていることを、印象付けてくれました。ちょっと興奮してごめんなさい。でも、ありがとう、勉強になりました。中国語的な発想で言葉を発するというのは、とても難しい課題になりそう。


Dさん
上个周末在「取手」有两个太极拳的锦标赛。
Shàng gè zhōumò zài qǔshǒu yǒu liǎng gè tàijí quán de jǐnbiāosài.
选手来自南关东地区。
Xuǎnshǒu láizì nán guāndōng dìqū.
我作为干事参加了。
Wǒ zuòwéi gànshi cānjiā le.

 

<訳>
先週末、取手で太極拳の大きな大会が二つありました。選手は、南関東地区から集まりました。私は、役員として参加しました。

 

锦标赛 jǐnbiāosài: 大きな選手権大会、この場合「比赛(試合)」でも十分。
自 zì: 〜から(場所や時間の起点を表す)、 来自〜 láizì 〜から来る
作为 zuòwéi: 〜として、〜の資格で
干事 gànshi: 役員

 

「选手来自南关东地区。」は、当初「南关东地区的选手参加了。」と書かれていた。これも、Cさんのところで述べた具体性という点からあまり良い文章ではないようです。日本語なら両者であまり違いが無いようにも思えますが、やはり、「南関東地区の選手が参加した。」ではなく、「選手は南関東地区から来た。」のほうがより明確に意味を伝えていると思います。

 

勝手な憶測だけれど、この文章を頭のなかで考えるときに、日本人は「南関東の選手」という言葉を中心に文章が思い浮かぶけれど、中国人は「来自(〜から来た)」を中心に文章表現が構成されやすいのかもしれないな??中国語に上達するためには、多くの中国語に接する必要がありそうです。

 


次回(第四週は漢詩なので、11月第一週になる)では、「秋」についての発表が課題になりました。それ以外の内容でもかまわないとのことです。