七月の漢詩

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南宋の詩人、杨万里 Yáng Wànlǐ1127-1206)の詩(七言絶句)を学びました。この「小池 Xiǎochí」は、中国の小学校一年生で学ぶ詩のようです。杨万里は、「南宋杰出爱国诗人 Nánsòng jiéchū àiguó shīrén」と紹介されています(「杰出」は「傑出」の簡体字)。剛直な性格が嫌われて中央での出世はかなわなかったとされています。陆游(Lù Yóu)・范成大(Fàn Chéngdà)とともに、「南宋三大詩人」と呼ばれます。これに、尤袤(Yóu Mào)を加えて「南宋四大家」と言われることもあります。4,000編以上の詩を残したといわれています。同じ宋でも、蘇東坡(苏东坡 Sū Dōngpō苏轼 Sū Shì)は、1037-1101年(北宋)に生きており、それよりも後の時代になる。

 

 

簡体字

 小 Xiǎochí

        宋 Sòng 杨万里 Yáng Wànlǐ

泉眼无声惜细流, Quányǎn wúshēng xī xì liú,

树阴照水爱晴柔。 Shùyīn zhào shuǐ ài qíng róu.

小荷才露尖尖角, Xiǎo hé cái lù jiān jiān jiǎo,

早有蜻蜓立上头。 Zǎo yǒu qīngtíng lì shàngtou.

 

 

繁体字

 小 池 

      宋 楊萬里

泉眼無聲惜細流,

樹陰照水愛晴柔。

小荷才露尖尖角,

早有蜻蜓立上頭。

 

<訳>(以下のサイトから引用)

泉は水を惜しんでいるようで、少しずつ流れている。

木の陰は池に映って、晴れている日はもっと優しく感じる。

蓮の葉の芽は若々しく尖っている。

既に、ドンボはもう止まっている。 

http://chinese.vivian.jp/kansi2.html

http://blog.livedoor.jp/usagi0816/archives/1038727176.html

 

中国では小学校の低学年で学ぶ詩ですが、日本ではあまり有名ではないようで、訳文もあまり見つかりません。ネット上で上記の二カ所に日本語訳を見つけましたが、同じ人(グループ)が書いたものでした。ちょっと情景がわかりにくいですね。

 

 

今回の学習で、いろいろ状況や情景について議論がありました。

まず、一行目(起句)で、池の流れが細々と流れているとありますが、「泉眼」とありますので、小さな池に流れ込む水の源か、湧き出る源があり、細々と水が流れている情景なのでしょう。「无声 wúshēng」(音声がない)とありますので、静かに流れているのを表現しているか、音もなく水が湧き出ているのを表現しているように思われます。

 

二行目(承句)では、「木の陰が水に映っている」と有ります。「爱晴柔」は、作者の感情が入っているのでしょう。「晴れた日の柔和でやさしい」感じが好きであるとのことで、木陰が写っている状況が気にいっているのでしょう。上記の訳の「晴れている日はもっと優しく感じる」は、詩を詠んだ日が晴れていないような印象を与えるので、適切ではないように思えます。

 

三行目(転句)では、ハス(荷 lián)の状況がどのようになっているのか、ハスとスイレンはどのように違うのかについて、討論しました。ハスとスイレンとは、属するグループが異なる、まったく違う花です(以下、http://www.hoshi-no.com/w-l1.html を参照)。

蓮(ハス)と睡蓮(スイレン)は両方とも、水の底の土や泥に根を張り、水面(水上)に葉と花を展開します。また、花も似た性質があり、日中に花びらが開き午後になると閉じます(蓮と睡蓮では花の咲く時間が少し違うようです)。これを3日繰り返して一つの花の寿命は終わりとのこと。睡蓮の名前の由来は、花が開いて閉じてを3回繰り返すので、日中(開く=目覚める)夜(閉じる=眠る)というところから、「睡眠する蓮」→「睡蓮」ということのようです。画家モネの描いた「睡蓮」を思い浮かべます。一方、蓮は極楽浄土の花として大切にされています。土浦では、蓮の根である蓮根(レンコン)が栽培されています。

 

両者の形態的な違いについては、睡蓮は基本的に葉に切り込みがありますが、蓮にはありません。睡蓮は、班入りの葉や赤い葉なんかもありますが、蓮の葉は多少の濃淡はあっても葉色は緑のみです。また、最大の見分けポイントは蓮の「立ち葉」です。蓮は春先になると葉を出し始めますが、まず「浮き葉」という葉が出てきます。この状態がけっこう睡蓮と似ている。浮き葉が水面を覆い尽くすと、蓮ではいよいよ「立ち葉」が出てきます。立ち葉は文字通り葉が水面から立ちます。花は、水面に咲くのが睡蓮。水面より上の方で咲くのが蓮です。(睡蓮にも水面よりも高く上がる場合がまれにあるそうです。また、熱帯種の睡蓮は水面より高い位置で花が咲くそうです。)

次のサイトも参考になります。

https://99bako.com/706.html

https://oitamedakabiyori.com/contents/post-378.html

分かり易そうな、写真を載せました。

 

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左(上)がスイレン(睡蓮)、右(下)がハス(蓮)

https://iwalkedblog.com/?p=19599

 

 

この詩の三行目(転句)で、「たった今出てきた尖ったもの」(「才露尖尖角」)と言う表現が、何を示すのかということがよくわかりませんでした。四行目(結句)ですが、「蜻蜓 qīngtíng」(とんぼ)が早々と(「早 zǎo」)、その先端に停まっているという情景です。尖ったものが水面から出てきたら、トンボがすぐに停まっている、と詠まれています。

中国で作られた子供向けの教育漫画を見ると、水面からでてきた花のつぼみにトンボがとまっています。

 https://www.youtube.com/watch?v=QkDnHEexjlc

 https://www.youtube.com/watch?v=_EzdW-By5Ho

また、百度百科のこの漢詩の解説サイト(https://baike.baidu.com/item/小池/6396)にも、花のつぼみにトンボが停まっている写真がでています。

 

しかし、同じ百度百科のサイトの注釈には、「尖尖角」は、「初出水端还没有舒展的荷叶尖端」と書かれており、「まだ展開していないハスの葉の先端」とあります。上記の日本語訳では、「蓮の葉の芽は若々しく尖っている」と訳されています。ここでは、水面からでてくる「立ち葉」のことを指しているように感じられます(ハスは、上記の解説にもあるように、「浮き葉」が出そろった頃に「立ち葉」が出てきます)。「尖尖角」という表現は、この「立ち葉」が出てきたばかりの状態を示しており、水面からちょっと顔をだしたこの「立ち葉」の先端にトンボが停まっているとしたほうが、実際の情景を表しているように感じます。下に、尖った立ち葉が出てきている写真を載せます(漢詩の情景よりも、すでにかなり伸びてきている状態かもしれませんが)。

 

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 水面から出てきた「立ち葉」。https://www.karenkaren.info/archives/1517

 

 

日本では、ハスの花の見頃は7月~8月だそうで、中国でも同様ではないかと思われます。トンボは秋にもよく見かけますが、春から夏にかけてもトンボは多くいると思います。そうすると、この情景は初夏に、木陰で涼みながら詠んだ詩でしょうね。もし、トンボが止まっているのが、花のつぼみではなく、立ち葉だとしたら、開花時期(7・8月)よりも早い時期(5・6月かな?)に詠まれたと考えても良いのではないでしょうか。

 

自然の情景を捉えた詩ですが、教室の参加者からは、唐詩とはすこし趣が違うような感じがするという意見もありました。爽やかな雰囲気が感じられる漢詩と思います。