土浦中国語 3月の漢詩

 

2018年3月28日

 

土浦市一中公民館で、水曜日の10時から12時に、中国語の勉強を続けています。飛び入り歓迎です。

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今日は、元の時代の画家である王冕(Wáng Miǎn 1287-1359)の漢詩を先生が紹介されました。梅の花をみて、この詩を紹介しようされたのだそうです。最近の暖かさに、例年よりも早く桜が咲いてしまい、梅の時期としては遅かったかな、とのことでした。

王冕は、水墨画で有名な画家のようで、梅の花を画題として好んだようです。全国を放浪して、絵を売りながら暮らしたといわれています。晩年は庵(梅花庵)にて隠棲したようです。

 

 

Mò méi

墨梅       王冕 Wáng Miǎn (Yuán

 

Wǒjiā xǐ yànchí tóu shù

我家洗砚池头树,

Duǒ duǒ huā kāi dàn mò hén

朵朵花开淡墨痕。

Bùyào rén kuā yánsè hǎo

不要人夸颜色

Zhǐ liú qīng qì mǎn qiánkūn

留清气满乾坤。

 

 

この漢詩は題画詩で、下記の画に添えられているものです。この絵は縦31.9 cm, 横50.9 cmの大きさだそうです。

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https://baike.baidu.com/pic/墨梅/8329700/0/48540923dd54564e35742ba0b1de9c82d1584f12?fr=lemma&ct=single#aid=0&pic=91529822720e0cf3c20c58e40246f21fbe09aa31

この画は、北京の故宮博物館にあるそうです。

 

<書き下し文>

我が家の硯(すずり)を洗う地頭(地頭)の樹

朶朶(ただ)花開けば墨痕(墨痕)淡し

要(もと)めず人の顔色(がんしょく)の好しきを誇る

只(ただ)留む清気の乾坤(けんこん)に満つるを

 

<訳文>

わが家では 池のほとりの木の下で硯を洗う

花が咲けば 梅の花びらに淡い墨の色

花の色を 私は自慢したいとは思っていない

望むのは 清らかな香気が天地に満ちることだけだ

参照 https://blog.goo.ne.jp/tiandaoxy/e/80d80f555887db7e783af168abd415b7

 

朵(d):花や雲を数える量詞

夸(誇)k:褒める、誇張する

乾坤 qiánkūn:天地、陰陽

 

朵朵(朶朶)は、个个(個個)と同じ意味であるとの事なので(https://baike.baidu.com/item/墨梅/8329700)、「どれもみな」「どの花びらも」ということなのかな?

 

図の中の詩をみると、詩の文字が若干異なっている。また、起句で「我家洗砚池头树」とあるが、先生の紹介では「我家洗砚池边树」となっていた。転句では、「颜色」と「好颜色」の両方がネット上に見受けられた。どうも、いつも同じ詩ではなく、この題画詩には複数の詩があるようだ。現に、版本一と版本二の両方の詩が紹介されていたりする(http://fanti.dugushici.com/ancient_proses/68568)。

 

 

 前半二句(起句と承句)

晋の書家である王羲之(おうぎし)が、住んでいた会稽山の麓の池で硯や筆を洗っていたので、池の水が黒くなったという故事を踏まえています。「花びらに淡い墨の色」とは、水に映った花びらの色が少し黒みがかったりしているとか、あるいは水面に落ちた花びらが墨に染まったのではなく、どうやら、樹が墨を含んだ池の水を吸い上げているので、花びらに墨の色がにじみ出ているという意味のようです。墨の濃淡で描く梅の花という意味も持ち合わせているのでは、とのことです。

 後半二句(転句と結句)

この二句に言いたいことがあるようで、「花の色がよいなどと人が褒める(誇る)のは必要としない。梅の花の清らかな香気が満ちていることを大切に思う。」 すなわち、絵画を売って暮らしていても、心は「清気」に満ちているというのです。

参照 https://blog.goo.ne.jp/tiandaoxy/e/80d80f555887db7e783af168abd415b7